About me 私について
西暦1964年12月3日生まれ、東京港区で育ちます。中学卒業後
ハワイ州に渡米。 帰国後東京都内の某印刷会社の養成デザイン専門学校に入学、1年間の全過程を終え卒業。 特に印刷基礎(シルク印刷を含む)、写真及び照明技術(銀塩)、トレース、テクニカルイラスト(エアーブラシを含む)を学び、トレース2級を取得。
19歳で港区青山のデザイン事務所に就職。 ここでは特にコンピュータ専門誌(アスキー)やマニュアル類、その他出版物を専門にデザインと割付を行っていました。 21歳で1次的に退職して港区麻布のデザイン専門学校に入学、基礎デザイン、中級デザイン、建築基礎、インテリアコーディネイト等を学び、2年間の全過程を終え卒業。その時、照明コンサルタント取得、レタリング3級取得。
その後、東京都銀座、湯島、六本木のデザイン会社を経て、大きな仕事としてはローランド、カロツェリア、味の素食品、ニュージーランド航空カーゴ、ミキハウス、日本たばこ産業の各ブランド広告、イベント企画と運営、ノベルティー企画と設計製作等を手掛けてきました。
これからと云う時、当時まだ多少若かったこともあり(日本の広告とは何だろう、流行通信を筆頭に各雑誌に流行のビジョン(色調まで)を植付けられ、方や高校生の流行が大人達に大影響を及ぼしたり、企業が創り出した彼等にとって都合の良い流行の種を多くの人達は頼まれもしないで飲み込み、育て、運ぶ、その事が歴史的な風習、文化をねじ曲げ、起源とは異なる誤った捉え方のまま定着させ浮かれている。 多くの日本人は個人のビジョンを持たない空の器みたい、言い換えればコネクターケーブルをブラブラ引きずりながら歩くCRTモニター。 コネクトする情報源によりコロコロと移り変わり、同じ情報源にコネクトしているモニター達は全く同じ映像を表示している。 クライアントの希望は彼らに自分達の種を飲ます事、私達の仕事は媒体がそれを飲みたくなるように、種に色を塗り甘い味付けを施す事)。
自分も不眠不休でそれらを加速させている、そんな詐欺の最前線で仕事をしているという感覚に捕らわれ、次第に悩むことが多くなって、それから約1年後デザイン業界から離れました。
今から考えると、疲労からくるストレスの影響もあったのではないかと思います。
◎注意: 実際に広告業界と、そのクライアントが詐欺をしていると言う事では全くありません。
そしてその後、規模を縮小して次の展開を模索していた父親の会社に入り、フランスの医者が開発してフランス国内のみで販売していたハーブのエッセンシャルオイルを主成分とした、ナチュラル化粧品、石鹸等の日本総代理店にもなり、ドイツで今でもただ1社だけ存在する、組立キット(カットされ表面加工された木製部品と錘や振り子などの金属パーツ、ビスや接着ボンドとドイツ語の説明書のセット)の機械式柱時計と掛時計の輸入販売等もやりました。
しかし何でも豊かにある時代、流通に上手く乗せることができず、大きな事業に結び付ける事はできませんでした。
前職は広告業界に居たにも関わらず、会社資金(父の個人資産を含め)を私の至らなさで捨てることになってしまった記憶は、何年経っても褪せる事無く、今でも時々夢に魘されることも。
2003年後半、父親にベトナムへの投資の話があり、元々ベトナムに興味を持っていた父親が、何をするかは別としてベトナムへの進出を決めた頃、私はハワイでのレストラン事業の話があり、渡米して店舗買収の交渉をしておりました。
帰国後も、ハワイで交渉の折合いが付かず冷却期間。 父親の話を聞いてみると、電動自転車をベトナムで製造して海外に輸出する、という個人レベルの投資では到底すんなりとは行かないであろう話。。。 デザインとモーターは日本から持込んで、製造はベトナムの国営の工場で行うっていう事と、現地に置いている駐在員が既に活動しているっていう話は聞いていましたが、私の頭の中はハワイのことで一杯だったような気がします。 ところが、少し前から父親が(喉が詰まる、食べ物が喉を通らない、喉に違和感がある)と言っていたので、病院で検査を受けたところ、食道癌!!それも一際大きい癌が発見され、即入院、大部分の食堂を切除して胃を吊上げるという大手術を受け、70歳を超えた父親には余に大きな試練が待っていました。
そこで選択とかそんな大層な事ではなく、極自然に(じゃ、取敢えず私が代わりに行こう)と言う様な感じでベトナム行きを申し出ました。 ただ幸か不幸か父親が以前に、一度ベトナムに同行させてくれていたので、特に抵抗は感じませんでした。 それで2005年4月ベトナムに来る事になったのです。
電動自転車は明電舎(日本)のモーターに、GPバッテリー(台湾)のニッケル水素式と、車体は私(日本)のデザイン、製造組立てはフレンドシップ・ジョイントカンパニー(ベトナム国営)の組合せで行い、最初のテスト車両(サンプル)を数十台と、その後、製品を数百台生産して販売に努めましたが、原因は別として(詳しい事は、後日ゆっくりと)、残念ながら会社は3年余りで撤退しました。
会社から突然の事業撤退表明後、在庫も当時150台位が代理店やメーカーの倉庫に残ったままですし、それまでに販売したお客様への保障やアフターケア等、どう対応するのかハッキリしないまま、帰国の有無を決める事は出来ませんでした。
それで貯えも無く先も分からないまま、このベトナムに残る事にしました。
そして今現在に至りますが、当初あまり好きではなかったこの国ですが、馴れとは恐ろしいものですね、自分勝手で、利己的な考え方をすることが多く、見栄っ張りで、信用や信頼とは無縁な潜在的嘘吐きで、理解に苦しむ常識を携えた人達が多く住む、この摩訶不思議な南越にミョーな愛着(好きとは別)が湧いてきて、この南越で暮す事にさえ安らぎを感じ始めるのです。 恐ろしや 恐ろしや。。。